おい待ちたまえそこの君

私は歩いていた。
歩いていたはずだった。
ある月の夜、心をバンジージャンプさせるがごとく処刑台にかけられたりやわらかい布団に寝かしつけられたりしたおかしな月の夜、勇んで一歩を踏み出したのだ。
さてはて、あれ、ところで私は今どこにいるんだい。
ここはどこ?
“途中だよ。”
は?君は誰だい、現れるなら私の許可を得てからにしてくれないか。
“途中さ。”
なんの途中なんだよ。ああ、いいや、知ってる。
私は今世界で二番目にりりしい顔つきで、ムーンリバーを歩いて渡っているのだ。
“君は本当はどこにいるんだい?”
だから、途中だろ。
“本当に?”

“本当に?”

“本当に?”


私は歩いていたはずだった。
あれ、例えば私はどちらの方向に歩いていたのだろう。
前に進んでいたのか?
後ろに進んでいたのか?
右に進んでいたのか?
左に進んでいたのか?
そもそも後ろだって進み始めてしまえば前になるし
左に進めば前だったところが右になって後ろだったところが左になる訳ですなわち左に進み続けるということは物理的に不可能であると。
いやいや文系だからわからないよ。
心で生きるのさ!
“うまいこといったつもりかい?惜しいねえ。”
どうしてだいほら私の心は光の導く方へぐんぐん進んでるのだ、色欲にあふれた人類なんかにはとうてい追いつけまい。
“本当にすすんでいるの?”
は?え?

もしかしたら私はここに立ち止まっていたのかもしれない。
はたまたムーンウォークで笑い者になりながらどこにもいけていないのかも。
ええ?最初からずっと布団に寝てた?しかも一人暮らしのアパートじゃなくて実家のせんべい布団にかよ!
まさかマンホールの上で野垂れ死んでたなんてこと・・・?

“本当に歩いているの?”
は?え?

もしかしたらと疑った瞬間地面が溶け出す。
あれ、泥にはまってもがいているうちに沈んでしまった?
そんなら地中を目指してたってことになっちゃうじゃないか!
そんな!と思った瞬間足が軽くなる。
音も消える強風!あれ、これじゃあまるでスカイダイビングじゃないか。
パラシュートなんてしてない!そんなら地中を目指してたってことになっちゃうじゃないか!
うそだろ、と思った瞬間視界が闇に包まれる。
おいおい、これってまさか、これじゃあまるでウサギを追いかけたあの少女じゃないか!
そんなら地中を目指してたってことになっちゃうじゃないか!



見上げる。
風圧で首がもげそうだ。月はあるか。あった。ああいつでもそこにいてくれたね。

“おいおいちょっと待ちなよ。まさかお前さん月に自分が見えているとでも思っているのかい?”

あたりまえじゃないか!月は私で私は月だ!
ああとても見つけやすい。あんなに光ってくれてとても見つけやすいよ。
“おいおい根拠はあるのかい?”
いやいやだって私も同じようにしてずっと光っているじゃないか。きっと見つけやすいさ!
“おいおい気違いくん。縮尺ってしってるかい?”
はい?
“ああ、哀れだ。君はとても哀れだ。”
はい?
“例えば月がBB弾で地球がビー玉だとしよう。縮尺をいじるとどのくらいの距離になると思う?”
ええと・・・私の行っていた小学校の一番大人数が入る教室あるでしょ?図画工作室だったかな。あの角と角を結ぶくらいかな。
“惜しいねえ。その教室からちょっと出て、通常サイズの教室を二つぶん進んだくらいさ。”
へえ。
“じゃあもう一度縮尺をいじろう。その縮図の中で君はどの場所にいると思う?”
私は月のただ一人の双子だから月と一体の場所にいるよ。
“ブッブー!大不正解大大大不正解!!”
はい?
“答えは無さ。どこにもいない。”
はい?
“強いていえばあれだな、君はあの地球という名前のクソみたいな濁ったビー玉に張り付いている粒子の一粒・・・いいや、この星の単位じゃ言い表せないほどなんだ。ああ。無理を言うなって。頭がかゆくなる。とにかく四捨五入まがいのことをしたらどこにも居なくなる程度のものなんだよ。”

・ ・・・・・はい?


“物わかりがわるいねえ。ああ!頭がかゆくなる!馬鹿に説明ごとをするのなんて時の奴隷のやることだ!いつからこんなこと引き受けることになったんだ!”
私は月に向かって歩いているんだって。小さな頃見たんだ、光。
最初は神様だと思って拝もうとしたんだけど両手首を切り落とされちゃったからこれは違うなと。そうそうあのひとだったんだ。神様じゃなくって月だったんだよ。そして約束したんだ。
“まあいい、たとえ話の方が頭の弱い子にはありがたいよね、そうだ!あそこにコインランドリーがあるだろ。”
ねえ約束したんだって。いつかちゃんと、
“そのコインランドリーでさ、君の立っている地球が丸ごと洗えると思うかい?”
ねえ、いつか、ちゃんとあの望んだ世界に、
“無理だろ!!!!無理だろ!!!無理だろ!!無理だろ!無理だろ”
二人で、
“無理だっつってんだろ!!!!!お前のやろうとしているのはそのくらいイカレたことなんだよ!お・ま・え・は。洗濯機で回る靴下!お前は縮尺に関するネジを緩ませすぎたんだ!生活と幻想を混ぜ合わせようなんて傲慢はここで必ず捨てていかなければならない!!!”
ちゃんと、

手をつないで逃げ出すんだよ。でっかい月の夜に。
手をつないで逃げ出すって約束したんだ。でっかい月の夜に。


なあそんなに顔を真っ赤にして、君はあのひとと話すときの私みたいだね。
“怒りと愛は違う”
同じさ。
そんなに疑うのなら聞いておくれよ、みんなにはあの月の表面のクレーターのひとつひとつが見えないそうなんだ。私には見える。全部見えるよ。
まぼろしさ”
じゃああの光の粒子のひとつぶひとつぶは?私にはぜーんぶ見える。
“げんそうさ”
じゃあさじゃあさ、あの潤んだ瞳は?満天の星を映し込む高貴なまなざし。私には見えるよ。
“月に眼なんてないんだよ。芽もない。”
うそだよ。僕は君を知ってる。って言うんだ!毎晩。私それだけで生きていける!
“もうやめようよ”
はい?
“もう、やめようよ。”
何を言うの?あと少しじゃない。
“うそだよ、ぜんぶうそだよ。”
ねえ触ったよ、私真実の光に触ってしまったよ。
“ぜんぶ嘘なんだ。はじめから君はどこにも居ない。ここがわかるかい?病院の中さ、未熟児治療カプセルの中。”
ねえ。あと一歩で抱きしめられるのに。
“気のせいなんだ。僕はお前を君を貴女を僕を、助けたくてここにきた。”
なにもいらないわ、私すべてを許せるもの!今死んだってかまわないの。
“お願いだよ助けさせてくれ。まだ君は等身大の地球に戻れるんだ。正しい縮尺の中で新しい朝日を24時間ごとに浴びるんだ。新しい名前を365日ごとに手に入れるんだ。同じ大きさの手と手をつないで日々を行くんだ。”
うそお。そんなのくだらないよ。空にかざせば星々のエンゲージリングが貰える。瞬きをすれば橙が藍に近づく。ああ私は私でよかった。本当によかった!

“どうしても助けたい。お願いだ、秘密の呪文を特別に教えてあげる。”
そんなものいらない。私吸い捨てられたタバコだって魔法のステッキにできるんだよ。
“お願い、言うことを聞いて。今なら間に合うかもしれない。”
死んだ方がましよ。
“お願い。楽になれるから。さあ言うよ。続けて唱えて。”
いらないって言っているでしょ!!





頭を鈍器でなぐられたみたいだ。
朦朧とした意識の中で、繰り返される、繰り返される。



ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
ダレモキミヲシラナイ
手術台のライトだってさ、なんとなくわかっちゃったけど。網膜通してみたら月みたいで綺麗だなあって少し思った。