静かな青いノートの日記。

わたしは泉の番人として、広い檻の中の森で暮らしていた。
飲めば不老不死になると言われる水を求めて、檻の中の近くや遠くから、色々な生き物が来ることが、わたしは嬉しかった。
やっと救われるといった顔をして素直に笑う者、もっと獣そのままの姿の者、あなたはこんなことろでずっと一人でいて淋しいはずだから傍にいるよと笑う者。
その檻の森は、他の世界線と比べても決して狭くはなかったから、きっと退屈はしなかった。
だけれど私は、この泉にわいているものがただの蜃気楼だということを知っていた。それで、かれらが飲むといつも、「また今日もだれも気づかなかったよ。」と、空の星にでも話すのだった。他の話し相手は居なかった。


ある日、片足を引き摺った一匹のユニコーンがやってきた。
片目は潰されていて、身体中傷だらけ、自慢の角も随分削られて丸くなっていたが、その佇まいが精悍として美しく、私は魅入った。

「お前さん、そいつぁ詐欺だぜ。まさかそのクレーターに水が満ちているなんて幻、お前ごと見ているわけじゃあないだろうな。」

私がきょとんとして尚も魅入っていると、飄々として、泉に鼻先を突っ込んだ。
ごくごくと飲む仕草をしている。きっと同じだ、蜃気楼を飲んで満足するならそれでもいい、プラシーボ効果に希望を適当に託して目を閉じた。

「なんのつもりかは知らねえが、そんな下らない幻は俺が全部飲み干してやるよ。ほら、一滴残らず寄越しな。」

彼が鼻先をくいっとするので、わたしも困って答えた。

「一滴残らずって、だからそんなものははじめから無いのよ。無理だよ、大体泉なんだから、幻だって湧き続けるものでしょう?好きなだけ飲むといいわ、飲めるんならね。」

「つれねえなぁ。」

そう答えると彼はさらに泉の水を飲む仕草をした。ごくごくと喉を鳴らすと、無いはずの水が、彼の食道を通り、身体に満ちていく光の筋が見えた。
彼は目の中に星を宿して、顔をあげて、わたしを見た。
わたしも、目を疑った。


「身体が痛くない…。」

そう言って、ユニコーンはたかたかと走り回った。

「なあ、檻の外の世界って見たことあるか?」

彼はとても嬉しそうに言った。わたしはそんなものがあると信じていなかった。誰もが、この檻の中のどこかから来て、この檻の中のどこかへ去っていく。

「そんなものあるのかな?あなたは見たことがあるの。」

「俺も見たことがないんだよ!でもほら、今、身体が痛くないだろ。だから行けるのかもしれないと思ってさ。」

わたしは1人、なんだ泉に水はあったんじゃないか…。と安堵しながら、彼の話をぼんやり聞いていた。

「もし良かったら、一緒に行ってみないか。俺が走るから、背中に乗ってくれたらいい。」

少し時が止まったけれど、わたしはこう答えた。

「わたしを乗せない方が速く走れるよ。それに、その向こうに何かがあるなんて、そんな保証はどこにもないよ。」


そう言うと彼は哀しそうな顔をして、「また来るよ。」と言った。


それから冬が3回通り過ぎても、わたしはずっと泉の前に座って考えていた。
ユニコーンは度々やってきては、何かしら置き土産をしていった。
宝石、虫の死骸、本物の透明な水、花。
彼に泉を飲むことが出来たのなら、他にも誰か飲める生き物がいるんじゃなかろうか?
本当にあの向こうには何もないのかな。行ってみなきゃわからないんじゃなかろうか?
彼はくりかえし私のところへやってきて、そんな日々を無駄だと思わないんだろうか?今にももう来なくなるのではなかろうか?
もしも、もしもあの向こうへ行けるとしたら、ここにいる人達はみんなどうなるのだろう。私一人だけ抜け出すなんて、そんなこと許されるんだろうか?
…許されないんじゃなかろうか?


だけれどわたしは、冬が3回通り過ぎてもこの場所にのこのことやってくる、彼のことが本当に好きになっていた。
泉の水を飲もうとやってきた全ての生き物を、わたしは好きになりたいと思ってきたけれど、いつもどうしてか自分を騙しきれると思った頃に、どこからか嘲笑う声が聞こえるのだった。「滑稽だな。そんなおままごとが続くと思ってるのか?」
それはほかの誰でもないわたしの声だった。
だけれどわたしは、この孤独なユニコーン一匹を想う時、なぜだかちっとも滑稽ではなかった。
嘲笑う声も一緒に、ただ彼に魅入っていた。


ある夏の日、彼は今にも干からびそうによろよろとここへやってきて、目を真っ黒にしてこう言った。

「何もなかった。何もなかったよ。」

彼は一人で行ってみようとしたらしかった。檻の外へ。
そして、黙って動かなくなってしまった。

わたしは、それまで悩んでいたことのくだらなさを知った。自分を運命の檻で囲うことの醜悪さを。誰かを救い出せないかと驕ることの卑しさを。目の前の手を取り、その目を見つめることを避ける理由になり得る全ての怠惰を。


今、ふりはらうなら、不老不死の泉はここに、初めて、存在する。そう思った。きっとこれが鍵なんだ。
そしてわたしは、彼が目を覚ますのをじっと待った。懺悔さえも下らなく消え、ただ、その目に光が戻るとき、必ずいつでもそこにいようと、思った。



荷物をまとめていると、思い出も記憶も混ざってわからなくなる。
何ももっていかなくていいとはいえ、少し寂しくてアルバムに手を掛けると、突然虫に噛まれたりする。
最後の最後まで友達を連れていきたいとごねるわたしに、彼はうんざりし尽くしていたが、結局彼だけと手を繋いで行くことにした。結局それしか方法がなく、二人とも、もうそれが悲しくもなく、少し嬉しいとさえ思っていた。


この世のだれもが苛まれ続けなければならない見えない巨大な問題から、例えば自分一人が抜け出せるとして、それを辞退するなんてこと、それこそ本当に許されるんだろうか。いいや許す筈がない。

それは二人の、明日の夜の夢から届く優しい拘束だった。


泉の前で、微睡みながら、垣間見た懐かしい光は確かにわたし自身の持つものだったが、懐かしいだけで、もう一度手にしようとは思わない。
そこには自由を求め、理解を求め、支配を求め、未来を求める、私がいた。
その想いは、泉にまた蜃気楼を満たすだけ。

瞬き二回、
星じゃなくて隣の、確かにいるきみに話してみる。

「何もなかったのは、君ひとりじゃ、あの檻を越えられないから。」


だからもう、この檻の中に生きる全ての生き物とは、話ができない。