虹の橋

海の上に虹がかかる場所があるんだ。
それを渡ってみたい。
そのために船も造った。
形はへんだけど立派さ。
どんな荒波にも嵐にも負けない。
正確には負けそうになる度に増築を繰り返して、
今じゃあすっかり何になら負けられるのか誰か教えて欲しいくらいのもんさ。
形はもちろん最初よりもずっと歪になったけど、
ここに乗ってくれれば必ずあのずっと向こうまで行けるさ。
もうこんな息の詰まる街で行きているのは嫌かい?
退屈が心を蝕んで食べたくないものを食べてしまうかい?
それならお代はいらないよ。
期限もないからいつまで乗っていてくれてもいい。
そう言って誰かが乗ってくると僕はよろこんで舵を切った。
立派なもんさ。絶対にどんな暴風雨が来ても沈まない魔法の設計図。
本当は何度もビリビリに破ってはまた貼りなおした、僕の継ぎ接ぎ模様の誇りさ。
そうしてまた何百人目かの友達が、食料を買いに寄った適当な島で降りていった。
 「旅はとても楽しかった。だけどずっとこうしてはいられないことを君も知っているはずさ。僕は次の島で降りて、この船の上で出逢った大事な人と手を取り合って生きていく。」
降りていく理由はみんなそれぞれ違っていたけれど、みんながみんな同じ理由で降りていった。
これは本当にどこまでも行ける船だ。
あのずっと向こうに虹のかかる場所があるんだ。そのことを話したら笑ってくれた。微笑んで、見てみたいって、そんなものが見れたらずっと悲しかったのが無駄じゃなかったって思えるはずだって、笑ったんだ。
虹を渡ってみたくはないかい?
そう聞くと誰もが最後には、ありもしないものを追い求めるよりも、今確かに触れられるものを大事にしろと、でないといつか独りぼっちのままで死ぬぞと、頭を打った犬を看病するようなやさしい目で言った。
膝から下がなくなったような気がしたが立っていた。ちゃんと立っていた。何百回目だ。立っていた。
僕は泳ぎが得意なんだ。独り乗りの船だったらもっとはやくに完成出来た、独り乗りの船だったらもっと危なくて近道の航路で、何度だって辿り着けたんだ。
僕がどうして虹の橋を知っているか、知っている?
僕ずっと小さい頃見たんだ。ガラスの割れる音。罵声。友達の顔が歪んでナイフで僕をぶすりぶすりと刺して笑っていた。お兄ちゃんは自分の腕を切り落として可哀想ネって言ってと縋り付き、パパとママは怒鳴り合って何の責任だかわからない責任を、なすり付け合っていた。きつく、きつく目を閉じたその中で見たんだ。たった独りになったとき、世界はただ完全を僕に見せつけた。美しさに胸がふるえた。涙が止まらなかった。僕はあの美しい景色を初めから手に入れていた。たった一人であんなものを手に入れていた。どうしたらいいのかわからなかった。涙がずっと止まらなかった。空を見上げても、風に吹かれても、雨に打たれても、転んで血を流しても、僕がいきていることを教えてくれた。胸が震えていた。どうしたらいいのかわからなかった。寂しかったのかどうかももう本当に解ったことがない。ただ美しかった。自分の大切に思う人と、あの橋を渡りたいと思った。


そうして何百人の人が通り過ぎていっても、僕は船を降りない。
本当にいつか辿り着けるのかと不安に思う日があろうと、僕は知っている。
きつく、きつく目を閉じて、時にはやわらかに目を閉じて。
いつでも逢える。だから、必ず逢いに行く。


真実を一度でも見たことがある人間は、呪われてしまうという。
一度でも見られたということを、真実のほうがずっと覚えていて、見たものが忘れてしまってもその人生はずっと、終わるまでずっと真実に見据えられているのだという。
その監視の恐怖から逃れるべく、人は暇つぶしを繰り返して頭を麻痺させるが…。
誰にも見られないものなんてきっと寂しい。
それがどんな黒く、黒い、何も無い穴でも、
僕はそのことを忘れない。
僕の目とお揃いだよ。だから他の誰も知らなくたって平気さ。


そして潰した目をもう一度あけたなら、見える世界は反転していた。


もう誰も乗って来ない夜の海を僕はずっと、これからもずっと漕いで行こう。
今度は人なんて僕の他に一人しか乗れない船でいい。
誰もが目を覚ませと言った。ありもしないものを追いかけるなと。
僕を大事に思ってくれた人たちは、口を揃えて「見捨てるのか。」と言った。
目の前の手を温めるより、枯れる為の涙を流すより、張り付いた笑顔で誰かの笑顔を誘うよりも大事な、大事な僕の生きる術は。


今度は人なんて君じゃないと乗れない船がいい。
雨や嵐に沈んでも、抱き合ってきっと助かろう。僕ら、
生き延びるだけでも大正解だ。
そして必ず連れて行くよ。
独りぼっちで見たって意味がない、僕の人生の唯一の宝物。
あのずっと向こうに、
そして僕の目の奥に、
本当にあると信じてくれたね。
最初の笑顔で解ったよ。